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「創世記の光に照らされて」

2019.5.12.(日) 神戸メノナイト・キリスト教会・礼拝奨励(予定原稿) 「創世記の光に照らされて」(創世記1:3、ほか) 宮平光庸 (はじめに) 創世記にはじまる旧新約聖書を概観するためには多くの参考文献や諸資料があるが、一回きりの人生の中でも限られた時間内に概要を理解するためには部分的な詳細を割愛して可能な限り全体像を見渡すことが要請される。 人生と同様に物事には初めと終わりがあるように、聖書の初めの書は創世記であり終りの書はヨハネの黙示録である。主イエス・キリストによれば、聖書を正しく理解する鍵は、聖書が証言しているキリストを中心に学ぶことである。 キリストはモーセの書を神の啓示と信じておられたのみでなく、モーセは実にキリストのことを書いていたのである。キリストの言葉を信じることはモーセの書を信じことである。(ヨハネ5:45~47、ルカ24:27) 人間には物事を知りたいという基本的願望があり、それはマクロ・コスモスからミクロ・コスモスに及ぶが、21世紀に生きる私たちは多くの事を学習する事も可能だが、未だに宇宙の初めに関する科学的に確証された知識はない。 幸いなことに私たちは神の啓示としての神の言である聖書が与えられており、世界の初めについては創世記から、終りについてはヨハネの黙示録から学ぶことができる。実に、イエス・キリストこそがアルファでありオメガである。

(付記)  ユダヤ教の聖書は旧約聖書のみで新約聖書はなく、その配列もキリスト教の聖書とは異なっている。ユダヤ会堂で読まれるヘブライ語聖書は巻物に成っており、会堂で読まれる聖書箇所はいわゆるモーセ五書が中心である。  キリスト教の聖書のような章・節の区分ではなく、パラシャーと呼ばれる物語としてまとまった内容による区分がされており、創世記では「ベレシット」から「ヴァイェヒー」までの合計12のパラシャーから成っている。

1.アルファとオメガ  「初めに、神、天地を創り給へり。」(1:1)という旧訳聖書の冒頭の聖句はしばしば天文学的なビッグ・バンと比較されるが、これは新約聖書のヨハネ福音書の最初に啓示された次の神学的真理と呼応するものである。  すなわち、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」  ここで、「言は神であった」という言(ロゴス)はイエス・キリストのことで、主イエス御自身が啓示されたように最初(アルファ)から最後(オメガ)まで存在される神である(ヨハネの黙示録22:13)。

(付記)  創世記に対応して、ヨハネの黙示録(21:1)では新天新地が啓示されている。これこそ私たちの聖書的希望の根拠であり主が預言されたように、たとえ天地が滅びても神の言の一点一画も滅びないという励ましと慰めである。

2.創造者と被造物  天地創造という根本的な神の啓示をモーセの書により知らされた人間にとり最重要なことは、創造者である神の理解なしに被造物であるマクロ・コスモスとミクロ・コスモスを理解することの不可能性を深く自覚することである。  創造者である神の固有名詞は聖四文字(יהוה)として聖書に啓示されているが、その正確な発音は不明であり、名は体をあらわす通り、人間にとり最重要な神を全包括的に知り探求することはできない。

(付記)  モーセの問いに対する神の応答として知られることは、無から有を創造された「有りて有る者」という神であるとともに、アブラハム・イサク・ヤコブの神と呼ばれる「人と共におられる神」(インマヌエルの神)である。

 誰も創造者なる神を見た者はなく、人となられた神であるイエス・キリストを清い心で見ることを通してのみ神を見ることが許されるので、聖書を通し、被造物を通し、歴史を通して、主イエスに(を)学ぶことが最重要である。

 天地創造の初めに地は形なく、やみが水の上にあり、神の霊が水の上を動いていたとき、神は言をもって「光よ、あれ」と言われると光ができた。ヨハネの福音書と黙示録によれば、その言はイエス・キリストである。

3.アダムとエバ  最初の人は「土」(アダマー)から造られアダムと呼ばれたが、このアダムは来るべき方である最後のアダムのひな型である。その妻はアダムから取られてエバと呼ばれて、すべて生きているものの母となった。(創世記3:20) (参照聖句:ローマ5:14、Ⅰコリント15:45)  交わりの神が男と女とに創造された人間の使命は、結婚により地を満たし、いわゆる文化命令により地を従えさせて、神に代わって海(魚)・空(鳥)・地(すべての生き物)を支配することであった。 3.人間の堕落  主なる創造者こそ人間が礼拝し服従すべき唯一の対象であったにも拘わらず、 アダムとエバは、蛇の形をとったサタンの巧みな誘惑にかかり、神の言への絶対的な信頼と従順を失って堕落し、死すべき存在となった。  人間へのサタンの誘惑は基本的に神の言を疑わせるもので、それを食べると必ず死ぬと神が禁じた善悪を知る木の実を食べると神のように成ると狡猾に偽り、人間も自らの分を超えて神のように成りたいという自我を優先させた。  最初にエバがサタンに誘われ、アダムもエバに誘われて堕落した結果、人は裸の恥を知るようになり、女の出産には苦痛が伴ない、男は額に汗して労働し、男は女を支配するようになった。

4.救いの計画  人間の堕落にもかかわらず、神は原始福音と呼ばれる救いの計画をたてられ、女の子孫であるイエス・キリストがサタンの頭を踏み砕き、サタンはキリストのかかとにかみつく(創世記3:15)と約束された。  創世記で啓示された神の救いの計画は、律法と呼ばれるモーセ五書/大小・預言書/詩篇等の諸書における旧訳聖書の様々な預言の成就という形で、新約聖書にまとめられたエッセンスがキリストの十字架と復活である。

5.堕落した人間の実状  アダムとエバの長男カインは農耕に従事し、弟アベルは羊を飼う仕事をしていたが、礼拝のささげものに関してアベルの羊が主に受け入れられ、カインの地の作物は受け入れられなかった結果、兄は弟を嫉妬して殺害する罪を犯した。  人が地上に増え始めたとき、地上に人の悪が増大し、主なる神は人が心に計ることがみな、いつも悪にだけ傾く傾向を見られ、ノアとその家族を除き地上を洪水で滅ぼすことをよしとされた。(創世記6:5~7、エレミヤ17:9) ちなみに、イエス・キリストはノアの時代やロトの時代に言及し、終りの時代には人々は飲食し、売買し、農林業や建築業に従事している時に、今度は水ではなく火で滅ぼされると警告しておられる。(ルカ17:26~8)

6.神の様々な契約  ノア時代の人類の罪に対する刑罰として洪水を起こされた神は、救いの計画を実行されるに際し、今後は水で人類を滅ぼさない印として虹を示すノア契約の他、アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約など様々な契約を結ばれた。  神と人の契約は人間的に言えば双務契約であるが、契約の当事者として神が契約を破られることは有り得ないが、罪人が契約を守り通す保証はなく、唯一信頼できるのは神の片務契約である自己呪詛的契約である。(創世記15:17)

7.イスラエルの歴史に学ぶ 聖書に啓示された神はアブラハム・イサク・ヤコブの神であり、契約の神である。創世記の天地創造に関する記述に続く内容はアダム・ノア・アブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフの物語である。 アダムは第2のアダムであるキリストを予表し、義人ノアは神の義を指し示し、アブラハムは父なる神を想起させ、その独り子であるイサク物語は父が子を献げた身代わりとしての贖罪の死と復活を連想させる。 ヤコブ物語は狡猾な人間ヤコブが神の祝福を求めて神と格闘した結果としてイスラエルに改名され罪人の救いの過程での聖霊の働きを覚えさせられ、また ヨセフ物語は神が人の悪を善に変えられた歴史的事実を教えている。 (参照聖句:ローマ8:28) 以上


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