「神の贖罪における聖と愛」
2020.1.12.(日)
神戸メノナイト・キリスト教会(礼拝奨励・予定メモ)
「神の贖罪における聖と愛」
―レビ記17:11、11:44、19:18―
宮平光庸
1.歴史的一回限りの贖罪
「肉のいのちは血の中にある。・・・いのちとして贖いをするのは血である。」(レビ記17:11)
旧約聖書において、動物の血を流して人間の罪を贖う儀式は象徴的なものであり、新約聖書に示されたキリストの十字架による贖罪の型である。
「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」(ヘブル人への手紙7:27)
2.神の聖
「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」
(レビ記11:44~45、Ⅰペテロ1:16)
私たちが「聖」(ホーリネス)を追い求めるのは、神が聖なるお方だからである。しかし、どのようにして罪人は聖と成れるだろうか?
「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖と、贖いとになられました。」(Ⅰコリント1:30)
「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル人への手紙12:14)
3.神の愛
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」
(レビ記19:18、マルコの福音書12:29~31、申命記30:6)
聖書が教える「愛」は、人間的に「好きになる感情」とは異なり、自分と同様に「大切(大事)にする」ということである。
神学者バルトや精神科医ボヴェーは、隣人愛を「愛せよ」という命令形よりも“Ye shall love”という未来形で理解しており、命令形が律法的に聞こえるのに対し、未来形は罪人に対する全能の神の憐れみにより約束が未来に必ず実現するという喜びに満ちた福音の響きとして聴こえるだろう。
「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」(申命記30:6)
以上