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「レビ記が(象徴的に)証しするキリスト」

2016.9.11.(日)

神戸メノナイト・キリスト教会(礼拝奨励・予定メモ)

「レビ記が(象徴的に)証しするキリスト」

宮平光庸

1.血による贖い

 「肉のいのちは血の中にある。・・・いのちとして贖いをするのは血である。」

(レビ記17:11)

  旧約聖書において、動物の血を流して人間の罪を贖う儀式は象徴的なものであり、新約聖書に示されたキリストの十字架による贖罪の型である。

 「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」(ヘブル人への手紙7:27)

2.旧・新約聖書における重要な教え(1)

 「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」

(レビ記11:44~45、Ⅰペテロ1:16)

  私たちが「聖」性(ホーリネス)を追い求めるのは、神が聖なるお方だからである。しかし、どうしようもない罪人は、どのようにして聖と成れるだろうか?その答えは新約聖書の次の聖句に示されている。

「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」(Ⅰコリント1:30)

「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル人への手紙12:14)

3.旧・新約聖書における重要な教え(2)

 「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ記19:18、

マルコの福音書12:29~31)

私たちにありがちなことは聖書の「愛」を人間的に「好きになる感情」と

誤解しやすいが、どちらかと言えば「大切(大事)にする」という理解の方が適切だと思われる。

なお、精神科医ボヴェーや神学者バルトは隣人愛を「愛せよ」という命令形よりも“Ye shall love”という未来形(神の言葉は成就する)で理解しており、この理解の方が律法的より福音的な響きが感じられないだろうか?

以上


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