「列王記が証しするキリスト」
2017.7.16.(日)
神戸Mキリスト教会・奨励(予定メモ)
「列王記が証しするキリスト」
宮平光庸
歴史の意義
聖書に創世記とヨハネの黙示録があるように、歴史には初めと終わりがある。大局的に見て歴史はBCとADに区分され、その中心は主イエス・キリストであり、キリストは歴史のアルファとオメガである(ヨハネの黙示録1:8)。
歴史は神の律法の成就の過程であり、律法とは未完了形における神の言に他ならない。
2. 列王記の概要
①列王記は基本にはイスラエルの王の歴史であり、歴代誌と類似している。
しかし、単なる歴史的叙述ではなく、ユダヤ教のヘブル語聖書では「(前の)
預言書」に分類されている。
②列王記は南北王国の諸王について記されているが人間の歴史の背後にあって
諸国を支配する神は罪深く反逆的なイスラエルの民を愛と正義をもって取り
扱われる。
北王国イスラエルの諸王は悪い王たちで、北王国が早々と滅亡したのはその
ためである。南王国ユダにはヒゼキヤのような良い王もいたし、ヨシヤ王の
下では宗教改革も行われた。ヨシヤ王は主の目にかなうことを行なって先祖
ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった(Ⅱ列王記22:2)。
また、ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起こらなかった(Ⅱ列王記23:25)。しかし、エルサレム陥落前の4人の王はすべて悪を行い、主の裁きを免れ得なかった。
④歴史を通して学ばなければならない預言的教訓とは、不従順には裁きが伴い、
従順には祝福が伴うことである。人間が堕落してから神の律法が完全に成就
されるのは、列王記が予型的に証しする来るべき王の王、主の主、キリスト
を通して以外にはあり得ない。
(付記)
王はこの世の支配者であり、神によって立てられた権威であるが、神の下に在るこ
とを覚えるべきである(ローマ書13:1)。終わりのときキリストはあらゆる支配と権威を父なる神に渡される(Ⅰコリント15:24)。
以上